第九章  カンナ、ありがとう



 
【第九章  カンナ、ありがとう】



 
「「「盛り上がった市民運動「「「



@ 小百合さんとカンナ A ロードレースに挑戦 B やさしさ福岡発


小百合さんとカンナ


 『三本足のサーブ』につづいて、盲導犬と人間との感動的な交流を見せたシーンが、こんどは福岡県下で展開された。「福岡のサーブ」となった盲導犬カンナである。カンナも最後は悲しい死を迎えたが、サーブに劣らない記憶を人びとに残した。
 昭和六十五年、福岡県下で「とびうめ国体」が開催された。引きつづいて開かれた全国身体障害者スポーツ大会で、史上はじめて全盲の藤山嘉弘さんが盲導犬ガーナとともに炬火リレーに参加した。
 緒方は藤山さんとガーナが並んで走る新聞の写真を見ていて、ひらめくものがあった。盲導犬をレースで走らせてみたら? そのときは盲導犬の宣伝ぐらいにしか考えていなかったのだが。
 福岡市のけやき通りでは毎年、レディース・ロードレースが行われている。若い参加者が多く、沿道の声援もにぎやかだ。その中を視覚障害者が盲導犬に先導されながら健常者といっしょに走ったら、盲導犬に対する市民の関心と理解が深まるのではないか。
 その候補として、緒方の頭には北九州市の全盲の女性、漢小百合さんとカンナがあった。
 そのころ、緒方のもとに小百合さんの父から手紙がとどいていた。手紙には、福岡盲導犬協会からいただいたカンナがどれほどかわいくて優秀であるか、小百合がどれほど信頼を寄せているかが細かく書いてあった。父は病床にあったが、心からのお礼と、自分がいなくなった後も小百合をよろしく頼むと記されていた。緒方は小百合のひのき舞台を、余命少ない父親にプレゼントしたかった。



ロードレースに挑戦


 緒方は協会の大山徳次郎常務理事、大和静男相談役に相談してから桜井昭生訓練士の意見を聞いてみた。カンナは、桜井訓練士が関西盲導犬協会にいたときに訓練した福岡協会の飼育委託犬で、小百合さんに貸与されたあとも桜井訓練士はなにかと面倒をみていた。
 「えっ、ロードレースに出場させる? 一般の人と一緒にですか? 盲導犬はハーネス(胴輪)を着けているときは走りませんよ。そう訓練しているんですから。しかも道の真ん中を走るなんてことは、ちょっと考えられません」
 反対する桜井訓練士に緒方は
 「うん、決まりはそうなんだが、カンナと小百合さんだったらどうだろう?     もし成功したら、これほど視覚障害者を元気づけるイベントはないと思う。一部の反対は予想されるが、おれは賭けてみたい。長年、この仕事をやってみてのカンみたいなものだが」」
 緒方の説得で桜井訓練士の気持ちも動き、理事長がそこまで言うなら従ってみようという気になった。
 緒方は内心では、無理かな、と考えていた。主催者の新聞社や警備にあたる警察が首をタテには振らないだろう。しかし、やってみるだけはやってみようという気持ちだった。
 小百合さんは以前にインドネシアの身障者スポーツ大会で単独では走ったこともあって「やってみましょう」と返事してきた。しかし、予想どおり主催者の新聞社が反対した。レディース・ロードレースは若い女性がファッションも楽しみながら思い思いに走る華やかな大会である。全盲の女性が申し込むとは思ってもいなかった。
 「二千人も走るんだから、そうでなくても整理が大変なのに」
 「犬がびっくりして、あばれだしたらどうする」
 「ほかの参加者は、どう思うだろう」
 「車がいっぱいの道路を走るんだから事故でも起こったら責任問題だ」
 いったんは参加を断られた。しかし協会のねばり強い交渉はつづいた。
 「私たちは、漢さんにもカンナにも絶対の自信を持っています。事故など決して起こさないと約束します。先導者も付けます。小百合さんとカンナが走ることで、体の不自由な人たちが元気を出すんです。小百合さんの五キロの記録は晴眼者に負けないはずです。お願いします」
 交渉は年を越した。最初は事故防止を優先していた新聞社も緒方らの熱意に動かされ、警察や陸上競技団体との話し合いに入ってくれた。その結果、小百合さんとカンナが、もみくちゃにならないように、学生の部と一般の部との中間で別にスタートさせ、先導者以外に女性の伴走者を前後四人つけることで参加を認めることが、ようやく決まった。
 西日本新聞社主催の「第六回福岡けやき通りレディース・ロードレース」は平成三年二月二十四日、平和台陸上競技場をスタートして行われた。新聞、テレビは、大会前から小百合さんとカンナの練習ぶりを紹介していたが、当日もレースの模様を大きく報道した。
 “二人”はついに完走した。五キロのレースを走り切って小百合さんがゴールインするとスタンドから大きな拍手が起こった。小百合さんは、それに応えるより先に、カンナを抱いて「ありがとう」とほほずりした。何回も、何回も。スタンドから、前に倍する大きな拍手のうねりがわき起こった。
 スタンドには緒方もいた。鳴りやまない拍手の中で、緒方は小百合のお父さんに、このシーンを見せたかったと思った。父はその数日前に亡くなっていた。



やさしさ福岡発


 この感動のレースは次々に新しい感動の輪を生んでいった。
 一つは、大野城市の児童文学作家、坂井ひろ子さんが小百合さんとカンナの愛の物語を『盲導犬カンナ、わたしと走って!』(偕成社刊)と題して出版、全国に広めたことである。小百合さんがさまざまの障害を乗り越えて、ついにレースを完走するハイライトシーンまでの物語は全国の親や子どもの心をとらえ、坂井さんの元には七年たった今でも全国各地の子どもから感想文や手紙がとどく。読書感想文コンクールでも必ずといってよいほど子どもが選ぶ本だ。
 その一つ、愛媛県大洲市の大洲小学校四年生、藤本珠美さんの作文を紹介しよう。
 珠美さんのお母さんは耳が不自由だ。珠美さんは、それが恥ずかしくて友だちにも先生にも長い間、隠してきた。そんなときに『盲導犬カンナ、わたしと走って!』を読んだ。小百合さんも難聴である。
 「ページをめくるごとに。むねがいたいような苦しい感じになった。小百合さんはどんなにくやしく、悲しく、こわかったことか。でも、小百合さんは負けなかった。私の母と同じで、たくましい。うつむいても、ぜったい顔を上げて動きだす」
 「お母さんと小百合さんには“心の目”や“心の耳”があって、そこからきっとエネルギーがわいてくるのだと思う。私が日記に、母の耳が聞こえないことを素直に書けたのは、カンナと小百合さんのおかげかもしれない。みんなに言うことができて、やっと気持ちが晴れ晴れとした」
 珠美さんの作文は平成十年度の青少年読書感想文全国コンクールで毎日新聞社賞を受けた。珠美さんは将来、保母さんをめざすという。小百合さんの生きるエネルギーが珠美さんら子どもたちに引き継がれていく。
 もう一つは、小百合さんとカンナが投じた一石が福岡県を中心とした多くの人々の心に火を着け、幅広い市民運動が展開されて映画化されたことである。
 あの感動を映画にして全国の人と分かち合おうと、まず原作者の坂井さんの周りの人たちが声を上げた。映画制作費の半分にあたる二千五百万円の募金を目標にした「映画をつくる会」が結成された。
 映画づくり運動の合い言葉は「やさしさ福岡発」。カンナに対する小百合さんのやさしさ、小百合さんに対するカンナのやさしさ、“二人”をつつむ人びとのやさしさ、そして視覚障害者をはじめとする弱者に対する健常者のやさしさ、やさしさに満ちあふれた社会への希望。そんなやさしさを障害と闘っている全国の同志へののメッセージにしよう。そんな思いを込めた自主映画づくりだった。
 最初の会員は大野城市の女性十人ほどだったが、企業や団体、市民の中へ飛び込んで協力を取り付け、街頭募金、チャリティショーやバザーを開いた。やがてボランティアと運動は県内から佐賀、長崎にも飛び火していった。
 当時の新聞を見ると、毎日のように市民の協力、善意が報道されている。高校生が街頭に立ったり、商店街が売上げの一部を寄付したり、特定郵便局長会が協力するなど盛り上がった。ロータリー、ライオンズの協力も大きかった。
 西日本新聞社の販売店組織、西日本エリアセンター連合会などは組織を挙げて募金に協力、募金額の半分を集めるほど。
 こうして川谷拓三、長門勇、太宰由美子さんらが出演した映画『盲導犬カンナ、わたしと走って!』(共和教育映画社制作)は完成し、今も全国各地の学校、公民館で上映され続けている。募金額は三千万円近くにも達し、一部は福岡盲導犬協会に寄付するなど、この運動は名実ともに大成功をおさめた。
 この運動がきっかけとなって盲導犬への関心はいっそう高まり、同協会への募金は目に見えて増え、パピーウォーカー(飼育ボランティア)の希望者が相次いだ。
 映画は文部大臣賞を受賞したが、それ以上に、人びとの善意が点から線へ、さらに面へと広がっていったことに大きな意味があった。「小百合とカンナ」を住民参加型の福祉運動のシンボルとしてとらえ、幅広いボランティア集団が形成された。マスコミも連日のように取り上げ、盲導犬にたいする関心は最高に盛り上がった。福岡の盲導犬の歴史を語る上では欠かせない市民運動だったろう。


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