第八章  「光の騎士となれ」



 
【第八章  「光の騎士となれ」】



 
「「「ライオンズクラブの支援「「「



@ 「われわれは奉仕する」 A 闇を照らす光 B 舞鶴、糸島クラブの貢献


「われわれは奉仕する」


 福岡盲導犬協会がここまで歩んでこられたのは草の根の善意や企業、ロータリークラブなどの奉仕団体のおかげだが、特筆しなければならないのはライオンズクラブの協力だろう。
 緒方は昭和三十五年、正金相銀西新町支店長のときに舞鶴ライオンズクラブに入会して以来の熱心なメンバーである。師と仰ぐ貝島義之氏の社会奉仕の精神に刺激されて入会したのだが、以来三十八年、さまざまの役職も経験して今日に至っている。ライオンスクラブの最長老である。
 ライオンズクラブが福岡盲導犬協会に並々ならぬ支援をつづけたのは、緒方が理事長をしていたこともあるが、それ以上に、創立の精神にもとづく実践の結果といえるだろう。
 ライオンズ国際協会の創立者は米国人メルビン・ジョーンズである。
 一八七九年(明治十二年)アリゾナ州の生まれ。ジョーンズが生まれたとき、陸軍大尉の父はインディアン討伐の一隊を指揮していて、彼はインディアン襲撃の脅威のなかで育てられた。
 シカゴ市の実業家として成功、市の有力者と交際するうち、世の成功者となった者は、それに甘んじず、社会のために尽くすべきだと考えるようになり、各界各層に社会奉仕団体の結成を呼びかけた。その結果、一九一七年(大正六年)、約二十人が参加してスタートしたのがライオンズクラブである。ライオンズクラブは好景気にわくアメリカン・ドリームの中から生まれたのである。
 『他人に尽くすことから始めなければ人生の大は成し遂げられない』を信条に、弱者のために尽くすことをクラブの基本精神とした。モットーは『We Serve』(われわれは奉仕する)である。ライオンズの命名についても、ジョーンズはライオンは勇気、力、誠実、行動といったものを象徴すると確信して命名した。
 アメリカで生まれたライオンズクラブは国内で輪を広げ、早くも創立三年後の一九二〇年にはカナダのウィンザ市に初の国外クラブが誕生した。以後、世界中にライオンズの精神が受け入れられ、現在、百五十一カ国に約三万五千クラブ、約百五十万人の会員がいる。



闇を照らす光


 一九二五年(大正十四年)、ライオンズクラブ会員ならだれでも知っている、歴史を画する出来事があった。
 アメリカ・アイオワ州のセダンポイントでライオンズクラブの第九回国際大会が開催され、ゲストに招かれた“三重苦の聖女”ヘレン・ケラーが次のように訴えたのである。
 「あなたのランプの灯をいま少し高く掲げてください。見えない人びとの行く手を照らすために。扉をたたきますから、どうぞ中に入れてください。私たちが求めるのは、お金よりも温かい心です。あなたの温かい愛の光に照らされたとき、すべての不幸な人たちに、ほんとうの幸せが訪れるのです」
 そして最後を次の言葉で締めくくった。
 「ライオンよ、盲人たちの闇を照らす光の騎士となれ」
 ヘレン・ケラーは、説明するまでもないが、生まれてすぐ、見えない、聞こえない、話せないという三重苦を背負いながら、人間への愛と不屈の勇気によってハンディを克服、生涯を不幸な人を助ける事業や平和運動に捧げた、たぐいまれな女性である。
 視覚障害者の保護と救済を訴えたヘレン・ケラーの演説は聴衆の大きな感動を呼んだ。聖女の口から直接、この結びの言葉を聴いたとき、会場は一瞬、静まり返り、次に拍手のあらしが巻き起こり、その波はいつまでも鳴りやまなかったという。
 ライオンズクラブは、創立から八年を経ていたが、大会では、ただちに視覚障害者福祉、視力保護をクラブの主力事業とすることを決定した。以来、それはライオンズクラブの中心事業として、今日まで連綿と受け継がれてきている。
 ヘレン・ケラー演説以後のライオンズクラブの視力保護に対する奉仕をみると    
  一九三〇年  「白い杖」運動開始。アメリカで「白い杖安全法                  」制定
  一九三九年  アメリカで初の盲導犬学校ができる
  一九四〇年代 アイバンクを各地に設立

と急ピッチである。アメリカでは「富裕」と「奉仕」は表裏一体のものとなっていった。
 世界に名の知られた奉仕団体としてロータリー、キワニス、ワイズメンなどのクラブがあり、それぞれ独特の奉仕活動をしているが、ヘレン・ケラーの訴え以来、ライオンズクラブといえば視力保護、視覚障害者福祉、「視力ファースト」といわれるほどの、いわばお家芸になっていく。



舞鶴、糸島クラブの貢献


 わが国のライオンズクラブは一九五二年(昭和二十七年)、東京で誕生した。当時なお険悪な対日感情下にあったフィリピン・マニラライオンズクラブによってスポンサーされた。太平洋戦争で日本に占領されたフィリピンだったが、恩讐を越えて人類の進歩と平和を願うライオンズ精神は、日本の指導者をいたく感激させ、以来、わずかの間に多数の会員を獲得して、いまやクラブ数約三千、会員数十六万という世界第二のライオンズ国となっている。
 日本でも、もちろん、ライオンズクラブは「光の騎士」「視力ファースト」の歴史を積み重ねてきた。
 昭和四十二年、東京にはじめて日本盲導犬協会が発足したが、設立者の参議院議員迫光久常さん、歌舞伎俳優の坂東三津五郎さんは、ともにライオンズ会員だった。二人は合わせて三千五百万円を拠出している。
 以来、東京各地のライオンズクラブが同協会を資金面で支えてきた。現在、全国に八カ所の盲導犬協会があるが、いずれも柱となる援助主体はライオンズクラブである。盲導犬育成への支援だけに限って奉仕活動しているクラブもある。ライオンズクラブと盲導犬育成は切っても切れない関係にあり、ライオンズを抜きにしては日本の盲導犬育成事業は語れないともいわれている。
 福岡でもライオンズクラブと盲導犬育成は密接に結ばれている。なかでも緒方の出身クラブである舞鶴や盲導犬訓練センターを地域内に持つ糸島ライオンズクラブの支援は大きいものがあった。
 舞鶴ライオンズクラブは貝島義之氏が会長を勤めたこともあって設立早々から永倉三郎、後藤清の九電正副社長、亀井光、奥田八二両知事らが名をつらね、勢いがあった。貝島は佐藤首相の五高、東大時代の先輩で、首相が九州に来ると、あいさつに伺うほどの大物だったが、社会奉仕に熱心だったので以後の舞鶴クラブも奉仕活動には積極的だった。
 なお舞鶴クラブは会員の村上薫を東洋人としては初めてライオンズ国際会長に送り出したことでも知られる。
 昭和五十八年、舞鶴LC(ライオンズクラブ)が発足十周年を迎えたとき記念事業に何をやるかが検討された。社会保障が不十分だった四十年代と、かなり行きわたり、国民の暮らしも豊かになった五十年代とではライオンズの奉仕のあり方も違ってくるはずだ。ライオンズのマークをやたらと公園や道路に張りつけ、「ライオンズは見てくればかり」と誤解を招くようなこともあった。
 その場かぎりのものでなく、行政に媚を売るものでもなく、行政の谷間を埋め、ほんとうに地域社会に寄与できるものは何か。
 その年は国際障害者年だった。スリランカから眼球を都合し、障害者に移植したらという提案もあった。だが実現は無理となって浮上したのが盲導犬の寄贈だった。これなら行政からも見放されている分野だし、継続的に支援すれば「視力ファースト」のLCの理念にも一致する。LCの歴史を調べるうちにヘレン・ケラーの演説のことも知った。
 こうして舞鶴クラブは昭和五十六年、九州盲導犬協会の発足に合わせて盲導犬八頭を寄贈した。協会第一号の盲導犬ロック号も、その中の一頭である。以来、毎年一頭の寄贈をつづけ、舞鶴クラブがこれまでに寄贈した盲導犬は十九頭。金額にすると、これだけで三、四千万になる。
 同クラブの場合、年会費十六万円で事業費、運営費、食費などをまかなっているが、かつては二百六十人ほどいた会員が今はエクステンションによって八十人に減ったため奉仕事業の内容も変化を見せてきた。最近は活動も多様化し青少年対策、環境対策にも力を入れている。博多の中心部を流れる那珂川がきれいになったのも同クラブの力が大きい。
 盲導犬にたいする支援は今でこそペースを落としているが、これまでの活動は、各地のライオンズクラブの盲導犬支援の先鞭をつけたものとして高く評価されてよいだろう。
 ライオンズクラブの盲導犬支援を振り返りながら舞鶴LCの小林明PR情報委員長は
 「ヘレン・ケラーの訴えにこたえ、その精神を引き継いでやってきたわけですが、福岡でのライオンズクラブの支援を引き出したのは、やはり緒方さんの力が大きいと思います」
 舞鶴クラブにつづいて、今では九州の多くのライオンズクラブが盲導犬育成で協力している。
 その一つ、糸島ライオンズは自分たちの町に訓練センターが建設された十年前から「誇りを持って郷土のセンターを支えよう」と六十人の会員が全力を挙げて支援し、これまでに寄贈した盲導犬は九頭に達した。
 同クラブの資金集めは街頭募金だ。ただお金を出すというのでなく、労力奉仕して集めることに意義があると、正月二、三日の二日間、桜井神社と雷山観音の二カ所で募金活動をもう九年間つづけてきた。今年も百四万円を集めた。
 「境内で募金をやるとその分お賽銭が減るだろうし、神社も困るだろう」とは思うものの、年の初め、初詣の人に浄財を出していただくのが意味があると思って続けている。その代わりというわけではないが、年に一度、会員総出で神社の清掃をさせてもらっている。
 熱心であればあるほど盲導犬普及についての改良点も見えてくる。古家嘉明会長(加布里保育園園長)は一つの問題を提起している。
 地域の人びとから集めた浄財は、できることなら地域の視覚障害者の盲導犬のために使いたいと思う。ところが「欲しい」という声がほとんど挙がらないという。地域には少なくとも七、八十人の視覚障害者がいるというのに。
 「ほんとに欲しくないのか。欲しくても手続きが面倒とか、お金がかかると思っているのか。調べてみたのですが、とても自分が盲導犬をもらえるなんて、と初めからあきらめている人が多いんです。これはPR不足です。協会は市町村の広報誌や新聞を使うなど、もっと手を尽くして広報すべきでしょう」
 もう一つ。
 「私たちが提供した盲導犬が、その後どんな活躍をしているのか、視覚障害者はどう変わったのか、そんな現況報告を、やはり知りたい。会員の励みにもなります。仲人は新郎や新婦の行く末は気になるものです」
 これは視覚障害者や協会への注文であろう。
 西南学院大学に視覚障害の学生がいて、遠くからJRや地下鉄を乗り継ぎ苦労しながら通学しているという話を聞き、平成八年にはその学生、西政宏さんを指名してバイロン号を寄贈した。同大学に盲導犬が入ったのは初めてのことだったが、大学も構内の設備を改善して、糸島LCの熱意に応えている。
 佐賀の自宅から盲導犬とともに通学する西さんの姿は今や有名だ。英国にも留学した西さんは学者として将来を期待されているが、その実現は糸島LCのひそかな夢でもある。
 バイロンは英国ロマン派の情熱的詩人。旧制高校の学生が勉学の意気に燃えて「バイロン、ハイネの熱なくも…」と歌った、あの詩人の名である。障害と戦いながら学ぶ西さんの伴侶にふさわしい名前ではないか。


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