第七章  訓練センター完成



 
【第七章  訓練センター完成】



 
「「「悲願達成の日「「「「



@ 地元財界の援助 A RKB、張り切る B 話術も武器に C 「今日がスタートです」
D 鶴喜代二氏、逝く E 桜井訓練士、着任 F 無口な人びと G 感激の卒業式


地元財界の援助


 サーブの話題でにぎわっていたころ、福岡盲導犬協会の最大の事業である盲導犬訓練センターが着工へ動きだした。
 前にも述べたように、当時、関西以西には訓練センターがなく、福岡盲導犬協会は遠く離れた関東、関西の訓練センターに飼育を委託するしかなかった。犬を希望する視覚障害者は東京や栃木まで出かけ、犬との共同訓練を受けるため四週間、泊り込まねばならなかったのである。
 なんとしても自前の訓練センターをつくり、県下はもちろん全九州、中国地方の視覚障害者の要望にこたえるという悲願を実現したい。鶴理事長や緒方専務たちの切なる思いだった。
 敷地を確保し、屋舎を建て、設備を整え、訓練士をそろえなくてはならない。 とにかく資金はないのである。盲導犬は視覚障害者に必要な補装具の一つとしてはまだ国から認められていない。だから公的な措置費は期待できないのだ。
 頭を下げて、お願いするしかなかった。
 まず土地の確保。これは九州電力に頼った。さいわい鶴理事長が福岡商工会議所の副会頭のころ瓦林潔さん(元九電社長)が会長だったこともあって、瓦林会頭のはからいで九電が前原町大字東の九電電化農場の一部七七〇坪を貸してくれることになった。
 次は施設だ。建設費の七千万円をどうするか。このうち五千万円は九電を中心とする七社会(九電、九電工、西鉄、西部ガス、福銀、西銀、シティ銀行)に都合してもらうというのが鶴理事長の腹づもりだった。
 鶴理事長には一つの思惑があった。福岡商工会議所の会館を建設するとき九電は建設費の一部を負担する約束になっていたが、事情があって、まだ約束を果していなかった。「その代わり訓練センターの建設費を頼む」という狙いである。なにせ五千万円である。そんな大金を出してくれそうな所は地元財界しかない。この交渉が正念場だった。鶴は必死だった。
 自ら九電の大野茂常務取締役(当時総務局長、現会長、九州山口経済連合会会長)に会った。しかし大野常務はすぐにはいい返事をしない。金額が大きすぎて。交渉ははかどらず、時間だけ過ぎていく。
 数日後、山下敏明福岡商工会議所会頭から鶴理事長のところに
 「正面突破でなく、からめ手でいったらどうか。お宅に緒方というのがいるでしょう。代わりに彼を遣ってみたら」
といってきた。
 とぼけた味のある緒方の方が交渉には向いていると考えたのだろう。
 緒方は大野常務に会った。やはり色よい返事はもらえない。緒方は視覚障害者は盲導犬によって自立への一歩を踏み出せるのだと必死になって訴えた。長広舌である。やがて大野常務の態度が変わってきた。
 「わかりました。半ば公共的な性格を持つ電力会社として寄付は慎重にやらねばならんこと。もっと社会に役立つ事業ならと思ったのですが、そんな地味な事業に金を出すところは、おそらく他にないでしょう。地元企業がやらねばいかんことでしょう」
 緒方はこのときのうれしさを今も忘れない。
 「私の気持ちが通じた途端、決心してくれた。九電はあちこちから寄付をたのまれていたはずなのに、大野さんは盲導犬福祉の将来性を理解してくれた。けい眼に感謝している」
 ただし大野常務は三千万にしてくれと言った。
 「いいでしょう。その代わり大野さん、あなたの方で七社会をまとめてください」
 「わかりました」
 結局、九電が二千万円、残り六社で一千万円を負担することになって話はついた。
 大野常務には、もう一つ気がかりなことがあった。
 「毎年の運営費はどうするんです?」
 年間、数千万円にも及ぶ運営費まで背負い込むとなると大変だ。痛い質問だった。運営費の見通しはまったくなかったのだから。しかし緒方は
 「いっさい迷惑かけません」
と答えた。というより答えてしまっていた。とにかく建てなければ、建てれば何とかなるだろう、という気持ちだった。
 答えたあとも緒方は運営費のことが心配だったが、一度、男が約束した以上、守らねばならない。あれから十余年、金がなくて七社会に何度か駆け込みたいと思ったことがあるが、緒方は約束を守り通している。
 今では福岡盲導犬協会を含む全部の協会が「特定公益増進法人」に指定され、企業などが協会に寄付すると、その分の所得は免税されることになって比較的に寄付しやすくなっているが、当時はそんな制度もなく、企業の寄付が難しいころだった。
 一般市民からの募金も苦労があった。街頭募金を繰り広げる一方、先進地を参考にして「愛と光の会」を組織、会員になってもらって千円、二千円の浄財を寄せていただいた。
 新聞社やテレビにも啓発面からの協力を求めた。さいわいアメリカのドッグフード企業ペディグリチャムやマスターフーズなどが新聞に全ページのキャンペーン広告を何回か出してくれて、ムードも次第に盛り上がった。ライオンズクラブも全面協力した。
 定期的に毎年、年金から五千円を送ってくれる人、匿名で寄付する人、百万円もの大金を寄付したお年寄りもいた。コインばかりをどっさり協会に持ってきた学校の子供たちもいた。労組の協力も相次いだ。協会がこれまでに出した「愛と光の会」の会員証は二千人に達している。その中には十二年間、五千円を送りつづけている夫婦もいる。



RKB、張り切る


 そんなとき緒方はある情報を得た。地元のRKB毎日放送が創立三十五年を迎えて、なにか社会に還元できる事業を計画しているというのだ。
 緒方はこれに食いついた。木元規矩男副社長は明大の先輩だったし、石炭鉱業界のときの同僚も幹部になっていた。黒野国夫社長に直訴して、ぜひ盲導犬資金のために一肌脱いでほしいと頼んだ。こうして三カ月に及ぶRKBの盲導犬キャンペーンが展開された。
 チャリティキャンペーンはRKBが総力を挙げた画期的なものだった。『九州に盲導犬訓練センターをつくろう』を合い言葉に『いま、街の中で盲導犬は…盲導犬と社会環境を考える』『視覚障害者に伴侶を!』の硬派もの、『盲導犬訓練士は語る』などのインタビューもの、『主人が危ない! 命を投げ出した盲導犬サーブ物語』などの軟派ものなどを連日テレビとラジオで放映した。
 盲導犬の里親パピーウォーカーや飼育ボランティアなど盲導犬が誕生するまでの流れや苦労を紹介する一方、盲導犬の市中パレード、武田鉄矢らを招いてのコンサートと盲導犬一色の番組編成をあえて実施した。こうして視聴者に募金を呼びかけたのである。
 緒方もテレビ生番組に引っ張り出され、身体不自由者施設「しいのみ学園」の昇地三郎園長と長時間の対談をやり、台本そっちのけで身体障害者の救済を熱っぽく語り合った。
 RKBのキャンペーンで結局、約千五百万円の募金を集めることができた。このキャンペーンは、テレビが地域社会のために果たせる役割をいかんなく発揮し        たものとしてテレビ放送界最高の栄誉である日本民間放送連盟賞を受賞している。   


話術も武器に


 建設資金の調達には緒方の友人ネットワークもものをいった。鳩文堂不動産、平成技研、百田興産、深見興産、森永勝次弁護士など多額寄付者の多くが緒方の友人やその関連会社だった。大小さまざまの備品なども、訓練士や視覚障害者用の寝具は、緒方が流通センター時代に知り合った西川ふとんから、机やいすは銀行時代の知人からといったぐあい。炊事道具、茶碗にいたるまで、ほとんど寄贈品だった。
 緒方の金集めのうまさは定評がある。鳩文堂不動産の草場只四社長の妻、淑子さんは緒方がお金の工面に来たときの模様を笑いながら話す。
 「なんの予告もなしに、ぶらっと会社にやってきて主人と糖尿病の話やら雑談ばっかししてます。終わりごろになって、訓練センターの歩道橋がちょっと痛んできたごつある、とかいうと、主人がすぐ気を利かして、私に“いくらか出しとかんか”といったぐあいです。正面から協力を頼む、なんて口に出されたことはないですね。あれが、あうんの呼吸というのですかね」
 「私の寄付獲得術は雑談に始まり、わい談に終わる」
 初対面の人はもちろん、知人であっても盲導犬協会理事長の肩書の緒方が訪ねてくると、お金の話と思って警戒する。なにせ一部の人にとっては「盲導犬協会」と聞けば「寄付」という連鎖反応が起こるほどなのだ。それをほぐすための雑談、冗談、そして相手によってはわい談。緒方も人知れぬところで苦労する。
 「向こうがよろいかぶとで構えているときに金の話を持ち出しては、あきません。まず世間話で相手のよろいを脱がせ、わい談でもできるムードになればしめたもの。やがて相手は上着も脱ぎ、裸になってくれる。だが攻める側のこっちまで裸になったのでは話にならん。頃合いを見て、やおら話を本論に持っていけば、相手は“敵は本能寺だったか”と思いつつも苦笑いして承諾してくれる」
 「寄付と女の口説き方は同じ。早々と本音をさらけ出しては元も子もなか。桃の実のポトッと落ちるようにやらんと。TPOを間違えたら目も当てられん結果になる。最近は女性問題がむずかしかけん相手を見て慎重にやらんとね」
 明治、大正の人にはわい談の名手が多いが、緒方もなかなかのものらしい。
 緒方が大切なお客をバーに招待したときに使う手がある。いきなりママさんに「わしの息子は大きくなったかい」。するとママさんもウインクして「その節は、いろいろと」と応える。相手にそう応じさせるものが緒方にはある、と友人たち。場がいっぺんに和やかになるそうだ。
 「上品なわい談が言えると一流だが、これがなかなか難しい」
 緒方は源氏物語さえもわい談のネタとして読んでいる節がある。

 センター建設の募金運動が軌道に乗ったころ、頭を痛める問題が起こった。盲導犬育成に名を借りた便乗商法である。
 「みんなの愛で盲導犬を贈ろう」とロータリー、ライオンズの会員、医師、宗教団体などにボールペン二本を送りつけて二千円を請求。返品してもよい仕組みにはなっていたが、ほとんどの人が被害にあった。協会の募金運動にも影響したが、この手の便乗商法は、その後も絶えず、まじめに福祉にたずさわる人々にとっての悩みになっている。
 盲導犬事業というのは人の同情を誘うところがあるので、美名を掲げ、ひと儲けをたくらむ連中に付け込まれることが少なくない。どの協会も過去ににがい経験をしている。油断ができない。



「今日がスタートです」


 盲導犬訓練センターの完成式の日が来た。
 昭和六十二年十一月十二日。秋晴れの快晴だった。しかし式典に参加したのは全国の盲導犬協会理事長や福岡盲導犬協会の役員ら関係者四十人たらず。視覚障害者の出席も第一号盲導犬を貸与された藤井健児牧師だけにしぼった。
 建設費は七千百万円。敷地は二千五百平方b。管理棟、犬舎棟、職員住宅棟の三棟。管理棟には五人が一度に宿泊訓練を受けられるよう個室五室のほかホール、研修室、ミーティングルーム、洗濯室、浴室、食堂があるが、他の訓練所に比べると、至って質素なものだ。
 「無駄な金は一銭も使いたくなかった。建物も式典も、見てくれはどうでもよい。要は全国四十万の視覚障害者のために、一日も早く、一頭でも多く、より優秀な盲導犬を育て上げること。それ以外のことは何としてもしのぐ。東京のセンターなどは大広間もついた四階建ての豪華な建物だが、我慢、我慢」
 質素な盛り鉢を囲んだ完成式で専務理事の緒方はこんな挨拶をした。
 「準備はできた。今日がスタートです。あとはわき目もふらず、盲導犬育成に全力を傾けよう。日本のといわず、世界のトップに立つ訓練所を皆の力でつくろうではありませんか」
 その夜、自宅に帰った緒方は、妻のお酌で、しみじみと酒を飲んだ。
 「うれしさは帰宅してからやってきた。ひと山越えたと思った」



鶴喜代二さん、逝く


 センター完成を節目に理事長を緒方に譲った鶴喜代二さんは翌昭和六十三年九月、九十二歳で亡くなった。福岡の盲導犬育成の先駆者として果たした功績は長く讃えられることだろう。鶴さんがいなかったら福岡に盲導犬育成の拠点は築かれなかった。
 鶴理事長は福岡市の住吉高等小学校を出ると、十五歳で博多土居銀行(福岡銀行の前身の一つ)に入り、博多無尽を経て西日本相銀の副社長に就任、昭和三十一年に正金相互銀行の第二代社長になった。土居銀行時代は昼は給仕、行員見習い、夜は住み込みの書生として働くという苦労人で、銀行生活はじつに六十年に及ぶ。頼母子講を発展させた相互掛け金制度を確立して相互銀行の基礎をつくった人物として知られる。
 正金相銀が労使問題のこじれから役員が総辞職、社長として西日本相銀から送り込まれたときも、普通なら腹心の部下を何人か連れて乗り込むところだが、鶴社長は単身で赴任した。率直な仕事ぶりで人心をつかみ、立て直した話は、その人柄を伝えている。
 正金相銀を辞めるときも劇的だった。若松、黒崎支店で相次いで支店長の不祥事が発生、鶴社長はイメージダウンした同銀行を立て直すため福岡相銀との合併を図ったが、社内の反対で実現できず、引責辞任した。
 正金相銀(現在の福岡中央銀行)の基礎をつくり、九州の相互銀行の地位を高めたことでも知られるが、福岡商工会議所副会頭として現在の会議所ビルの建設に尽力、日本赤十字に対する功績も大きかった。亡くなったとき新聞は「中小企業育成に情熱」の見出しを添えて死を悼んだ。黄綬褒章、勲五等旭日章、日赤金色有功章を贈られている。
 四島司福岡相銀社長(現福岡シティ銀行頭取)は正金相銀の銀行葬で次のような弔辞を述べた。
 「口をへの字に結ばれた毅然とした経営者の御顔、酒席を愛し、相好をくずされた翁の御顔、その惚れぼれとする男のお顔から大きな優しさがこぼれていました。……風月に遊ぶ高雅の御齢を迎えられましても、さらに志を高く持され、盲導犬協会を設立して目の不自由な方々のために力を傾けられました」
 緒方も福岡盲導犬協会理事長として
 「一日も早く、一頭でも多く、より優秀な盲導犬を育成し、遺志に報います」と誓っている。
 鶴理事長は熱心なクリスチャンとして教会の充実に努めたことでも知られる。教会葬には五百人という記録的な参列者があった。そのしんがりに十数人の視覚障害者が盲導犬を伴ってつづき、遺影に告別の花を捧げた。感動的な情景だったという。
 鶴理事長に口説かれて協会に入ることになった緒方だが、鶴理事長には終生かわいがられた。その引き立てがなかったら今の緒方はなかっただろう。
 「いいおやじさんだったなあ。思い出は尽きない」
 飯塚支店長のとき、緒方は、お得意さんに頼まれて飯塚市のある学園に二千万円を融資したことがある。支店長の判断で貸せるのは二百万までだった。しかも本社への稟議なしだったから無謀な融資である。
 緒方もそれが気になっていて、いつ本社が問題にするかとひやひやしていた。数日後、支店長懇親会が開かれた。いやでも鶴社長と顔を合わせることになる。緒方はわざと席も乱れるころを狙って会場に行き、末席に座ろうとすると、鶴社長が手招きした。
 「おお、会長さん。上座に、上座に、どうぞ」
 支店長の身分で二千万円も勝手に融資するなんて社長より偉い人という皮肉である。会場は沸いたが、鶴はニコニコするばかりで、それっきり触れなかった。だが帰り際、緒方を別室に呼んだ。こんどはひどく真面目な顔で
 「もし二千万が焦げついたら、どうするつもりだった? 自分で弁償するつもりだったのか」
 緒方が「はい」と答えると
 「それでは二億だったら、どうする?」
 緒方は詰まった。
 「払えんだろう。稟議制度はそんなときのためにある。いい加減にしてよいものではない」
 ときびしく説いたという。
 以来、緒方には「会長さん」というあだ名が付いたが、このときの鶴社長の優しさと厳しさを巧みに使った自分への接し方は忘れられないものだった。



桜井訓練士、着任


 さて、訓練センターの建物はできたがが、そのあとが大変である。物のあとは人。訓練士がいなくては話にならない。緒方の理事長としての初仕事は訓練士の養成だった。
 協会は一人の若者を栃木県宇都宮市の訓練センターに派遣していた。桜井昭生さん。訓練センターの建物ができあがったころ、五年間の教育を終わった桜井が帰ってきた。
 桜井訓練士は山口県岩国市の高校を卒業後、印刷会社でデザインの仕事をしていたが、点訳ボランティアの仕事をしていたときに盲導犬のことを知り、犬と一緒の生活がしたくて八年間勤めた会社を辞め、各地の盲導犬協会の門をたたいて回ったという根っからの犬好きである。
 福岡の協会を訪れたときは二十七歳だったが、そのときの模様を緒方は昨日のことのように覚えている。
 「どこか、はにかみ屋で、ひ弱い感じだった。君には無理だろう、というと、どうしてもなりたい、という。協会は金がないから給料も払われんぞ、とおどかしたら六十万円の貯金を寄付してもいいと一歩も引かない。見どころがあると思ったですな」
 見習い訓練士として栃木に派遣されたが、給料は会社時代の半分以下の五万円。いつか郷里の山口県で盲導犬第一号を誕生させたいとの思いを胸に今日までがんばってきた。
 今は訓練センター所長として四人の研修生の指導に当たり、協会にとってなくてはならない存在である。緒方の仲人で栃木のころに知り合った恭子さんと結婚、子供には緒方から一字をもらって豊と名付けた。
 桜井訓練士のような、ひたむきな、縁の下を支える人がいなければ、訓練センターに魂を入れることは、到底できないことだった。
 盲導犬訓練士は、なり手は多いが長続きしない。朝早くから犬の排便の世話、ブラッシング、ミーティングのあと犬の訓練。一日平均、四、五時間は犬といっしょに歩く。エサを与え、犬舎を清掃し、また夜のミーティングと朝六時から夜九時までスケジュールはぎっしりである。視覚障害者と犬との共同訓練が始まると、さらに神経を使う。
 相手は犬だけではない。視覚障害者もいろいろな人がいる。若い人もおれば、お年寄りもいる。会社の部長や社長をやった人もいる。高校を出たばかりの若者が、そんな人を相手に教育するのだから気苦労が多い。
 「訓練士は、しょせん人間相手の仕事」
と緒方はいう。ここのセンターでも過去、若い女性が訓練士をめざして何人も入門、その都度、新聞などで派手に紹介されたが、みんな途中で挫折した。
 訓練士の仕事というのは、それぞれ個性のある生き物を相手にしながら視覚障害者が命を託して共に歩く盲導犬を育て、その犬の使い手になる人にも必要な指導をしていくという重い責任がある。ただ犬が好きというだけでは勤まらない。 協会には今でも毎日平均、五、六人の若者や女性から「訓練士になりたいんですが」という電話がかかる。大変な数である。緒方は、その都度
 「大変な仕事ですよ。犬のふんも扱うし、給料も安い。結婚して親をよろこばす方がいいよ」と応える。だいたいは、それであきらめるが、それでもあきらめずに掛けてくる人は見込みがあると思って「では一度、訓練センターを見てください」。だが遠方から見に来る人はあまりいない。
 いま盲導犬訓練士は全国八カ所のセンターにわずか二十八人、研修生が百五十人しかいない。アメリカなどに比べるまでもなく寒々とした状況である。
 緒方は桜井訓練士を夜間大学に通わせた。働きながら心理学、教育学、点字、福祉関係の法律などを学んでもらった。一人前の訓練士になるためには幅広い知識と教養が必要である。犬が好きというだけでは五年の修行はすぐ壁にぶつかる            。盲導犬の先にあるもの「「人と社会を見つめる目と感受性が求められている。    相手は深い苦悩をかかえる人たちなのだ。その心の中に入れてもらえないで訓練士の仕事はできるものではない。



無口な人びと


 前原町の訓練センターを訪れ、桜井所長に会った。
 視覚障害者と犬の共同訓練が行われていた時期で、桜井所長は目の回るような忙しさだった。犬のこと、障害者のこと、将来計画のこと、いろいろと話てくれたが、一番の気がかりは、まだ若い四人の研修生をなんとか一人前の訓練士に育てたいということのようだった。
 毎年、卒業シーズンになると、協会と同様、ここにも高校生から「犬が好きです。入所したいんですが」と問い合わせの電話が百件ほどかかる。実際に、やって来るのは半分ぐらい。それが、仕事の説明、面接、体験入所などをするうちに減っていき、入所するのは毎年四、五人。それも途中で脱落していくことが多く、この十余年、桜井さんを除いてまだ一人の訓練士も誕生していない。
 「どういうわけか利口で、よくしゃべり、器用な子は長続きしない。途中で別の興味が生まれるのか、都会へ転職していく。最後まで残るのは無口で、どちらかといえば不器用な子です。だが、そんな若者こそ誠実で、視覚障害者や犬の気持ちと通じ合える心を持っているのでしょう」
 そう語る桜井所長自身もひかえめで無口な人物に見えた。視覚障害者のための盲導犬づくりに一途に努力している人びとの大半は無口で、辛抱強く、生き方が不器用というのは偶然の一致なのだろうか。弱者のために尽くせ、そのためには誠実ささえあればよいのだ、と神様が言っているように思えてならない。



感激の卒業式


 センターの職員の苦労が報われるのは卒業式の日である。平成十年四月八日、盲導犬訓練センターの第二十九期共同訓練卒業式が行われた。
 卒業生は、四週間ここに泊り込んで犬との共同訓練を終えた男女二人ずつの四人。沖縄から来ている人もいる。ただし女性二人は、まだ十分な習熟ができていないということで当分は補習が続く。一人はホームシックにかかって帰りたいのだが、卒業延期と聞いて落ち込んでいた。しかし、犬を十分にコントロールできなければ、ペーパードライバーと同じで、家に帰ってからも外出はできない。かわいそうだが卒業させるわけにはいかないのである。
 緒方は、こんな挨拶をした。
 「皆さん、おめでとう。今日で基礎訓練は終わった。これからは皆さんの努力で犬を自分のものにしてください。今日がスタートです。これまでの経費の大半は大衆の浄財でまかなわれていることを自覚され、どうか一日も早く、社会復帰してください。それが協力してくださった人々への恩返しです。思う時間に、思う場所へ、自由に出かけてください」
 桜井所長は
 「これからは遠くで皆さんを見守り、いつでもバックアップします。皆さんの生活が豊かになりますように」
 このあと食事ボランティアの方々が用意してくれたカレーライスを食べながら懇談したが、笑いはあまりない。卒業の喜びより不安が先に立つのか。未来は開けるのだろうか? 帰った先に待っているのは光か、それとも依然として闇か、その不安こそが未来そのものなのだろう。
 卒業生の一人、広島市の泉川悦雄さんは二十歳のときに失明したが、昨年まで県立盲学校の先生だった。三十五年間、白杖一本で歩行十分、バス十分の道を通いつづけた。
 「杖で歩くのはとても神経を使います。三十分も歩くとくたくたです。それで第二の青春を迎えるつもりで盲導犬に挑戦しました。ここに来てほんとによかった。安心して歩けます。もっと犬に任せることができるかどうかか今後の課題でしょう」
 「犬を連れて天神や太宰府神社で休んでいると、必ずといってよいほど“かわいい”とかいって人が話しかけてくれます。杖のときはなかったことです。これはうれしいですね。孤独を感じなくてすみます」
 「教師の私が犬に教育の原点を教えてもらいました。子犬のときにパピーウォーカーからしっかりしつけられた犬は成犬になってからも信頼がおけます。よくほめ、時にしかる。人間もそうではありませんか。最近の子どもの問題を見つめ直していますよ」
 泉川さんは、そういって盲導犬イシュタルとともにセンターを後にした。家族には広島駅に迎えに来ないように伝えている。
 「タクシー、新幹線、バス、そして人ごみ、車のラッシュ。無事に帰り着くかどうか大変なような、楽しみなような」
 イシュタルとはバビロニア語で「愛の女神」という意味だという。泉川さんが愛の女神に導かれて、広島の街を自由に歩ける日が来ることを願わずにはおれない。
 卒業生を玄関から見送りながら緒方がつぶやくのが聞こえた。
 「今が私の一番うれしいときだ」
 この日の四頭で福岡盲導犬協会が送り出した盲導犬は九十一頭、被貸与者は六十八人(一人で計二頭の人もいる)になった。来年には百頭達成の見通しだ。緒方の悲願実現の日は近い。



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