第五章  心の友、盲導犬


 
 
【第五章  心の友、盲導犬】



 
「喜びも悲しみも、共に「「「



@ 盲導犬が育つまで A 賢い服従 B 杖か、盲導犬か、ロボットか C 「雨ニモ負ケズ」


盲導犬が育つまで


 一頭の盲導犬を視覚障害者に手渡すまでには大変な苦労と年月とお金がいる。 盲導犬は先天的な素質が大切なので、まず血統のよい親から子を生ませる。幼犬を家庭に預けて人間に馴れさせる。その上で訓練士がさまざまの訓練を重ね、適当な主人と組み合わせるという過程をたどる。この間、約二年、費用は人件費なども含め約三百万円。
 まず犬の繁殖ボランティアを確保しなければならない。それも、よい血統の親から生まれた子犬でないと、どんなに訓練しても盲導犬としては役に立たない。二代、三代と経つうちに犬の血統が劣化して、大きな差がつくという。人間は努力と根性こそがものを言うが盲導犬や競走馬は血統が命なのだ。
 どの協会も優秀犬を確保しようと懸命だが、イギリスと日本の盲導犬の血統、性能を比較すると、残念ながらイギリス犬の方が優れている。イギリスでは狩猟を愛好する王室や貴族の保護を受け、犬の品質改良は数段上である。そこでイギリスから優秀な犬を輸入しようと思っても「日本人は犬を可愛がらない」といって、なかなか要望に応えてくれないといった事情もあるようだ。
 犬の名前は、太郎や花子では人間と区別がつかないからか、ほとんどカタカナ読みである。ロバータ、チャンピー、サーブ、カンナ……。
 一つのお腹から生まれた兄弟たちは名前の頭文字を同じアルファベットで統一している場合が多い。この四月、福岡の訓練センターを卒業した三姉妹の盲導犬の名はイマジン、イシュタル、イレーヌと頭文字を「I」でまとめている。
 犬の名付け親となる繁殖ボランティアにとって命名は苦心のしどころだが、わくわくする瞬間でもある。どんな名前を付けようかと家族で頭をひねる。子や孫の名付けは人任せなのに盲導犬の名前となると目の色を変える人もいる。福岡盲導犬協会所属の繁殖ボランティア、本田正之輔九大教授などは専門の物理学の本まで引っ張りだし、しゃれたカタカナ文字を見つけ出すと、「あったぞ」と試験で解答を見つけた学生のようなはしゃぎぶりだという。
 さて、子犬は生後二カ月間ほどでパピーウォーカーと呼ばれる飼育ボランティアに一年近く預けられる。パピーは子犬、ウォーカーは歩く人。子犬と一緒に歩く人という意味だ。ここで人間との家族生活に馴れさせるのだが、この期間はとても大切だ。人間も幼少期の環境やしつけが大切なように。
 子犬は、この家庭生活で人間の愛情を知り、人を怖がらず、しかしボスは人間であることを覚えていく。主人のために働くことを自覚し、自分は犬ではなく家族の一員、つまり人間であると考えるようになる。
 犬の属性のうち人間に役立つ部分だけを訓練し、むやみに吠えるとか、かみつくとか、強い犬に従うとか、盲導犬には不都合な部分を消していく。盲導犬になれるか、なれないか、ここでの愛情、しつけにかかっているといってよい。
 もちろん愛情をもって育てることが先決だが愛情に負けてはいけない。つい、ほだされて、おかずの残りを与えたりするのは最もいけない。優しさのなかにも厳しいしつけが求められる。
 といっても、パピーウォーカーは一年の間に特別の訓練をほどこすわけではない。トイレと食事の最低限のしつけをすれば、あとは愛情いっぱいにのびのび育てればよい。細かいことでいちいち怒ると神経質な成犬になるおそれがある。名犬といわれた盲導犬は、ほとんど明るく、のんびりした家庭で育った犬といわれている。
 甘やかすのはよくない。人間はたいした動物ではない、自分のほうが人間より上と思い込んだ犬は、大きくなって突然、ほえたり、あばれたり、反抗する。
 とくにトイレと食事に関しては徹底しなければならない。主人と歩いていて、うまそうな匂いに気を取られては先導役は務まらないし、ホテルなどで粗相でもしたら即解任の運命が待っている。人間は「失敗は成功のもと」だが、盲導犬は一度の失敗でもダメになることが多い。失敗が強烈に頭にインプットされて自信喪失するからだ。
 「三つ子の魂、百まで」は犬にも言えるわけで、盲導犬のユーザー(使用者)は例外なく「子どもと盲導犬のしつけは、驚くほどよく似ている。わが子を育てる前に盲導犬を持っていたら、どれほど参考になっただろう」と苦笑しながらいう。
 盲導犬は二カ月から一歳までの間が大事なときで、人間にあてはめると小、中学生にあたる。ほめるときは、すぐその場でほめてやる。悪いことをしても、ただ怒ってわからせるのではなく、なぜ悪いのか、その理由をきちんとその場で理解させる必要がある。
 同じように人間も、この時期がもっとも大切だ。子どもの行動が少しでもよければ、ただちに愛情たっぷりにほめてあげる。そして悪いことをしたら、まずその場で理由を聞いてやる。そうすると子どもは両親の愛情につつまれて少しずつ理解を深めながら、自分なりに行動をしようとするようになる。
 人も盲導犬も、ほめて育てることが一番大切ということだ。
 あるパピーウォーカーから聞いた話だが、夏の暑い日差しが照りつけるとき、犬が主人を日陰を選んで先導できるようにするには、犬にどんな訓練をしたらよいかと考えた末、焼けたアスファルトの舗道を歩かせて足の裏をたたき「ね、熱いだろう。ノーだよ」。日陰の冷たい舗道を歩かせて足の裏をなでて「よーし、グッド」。それを繰り返し、とうとう涼しい所を先導するようになったという。訓練士顔負けのパピーウォーカーもいる。
 パピーウォーカーは次のような家庭的条件を満たすことが必要とされている。(「参考資料」の『盲導犬Q&A』参照)

 一 子犬が遊べるほどの庭があり、ほかの犬を飼っていないこと
 二 室内に屋内用犬舎(ケージ)を置いて飼育ができること
 三 子犬を連れて、車で移動できること
 四 家族ぐるみで子犬の世話ができること

 一年近い家庭訓練が終わると犬との別れが待っている。本格的な訓練をほどこすために訓練所に返さねばならないからだ。別れはつらい。
 何日たっても「今ごろ、どうしているだろう」と家族みんなで心配する。犬と視覚障害者との共同訓練が始まると聞くと、家族そろって車で訓練センターまで出かける。顔を見られたり、近づいたりすると犬を惑わせるので、車の中から、そっと顔を出してハラハラ、ドキドキしながら仕事ぶりを眺めるという。
 やがて合格発表の日が来る。盲導犬として適格かどうかが決まるのだ。このときパピーウォーカーは「合格して」という気持ちと「合格しないでもよいよ」という気持ちが入り交じる。合格しなければ、育てたパピーウォーカーにペット犬として返されるからだ。可愛くてたまらない犬が帰ってくるのは喜びでもあるわけだ。
 福岡の場合、合格率は四〇lという。九〇l前後の欧米に比べてかなり低い。理由は犬の血統が良くないことや家庭でのしつけに失敗したことなどによる。



賢い服従


 いよいよ訓練センターで視覚障害者との共同訓練が始まる。
 やがて主人となる視覚障害者と犬との出合いは感動的なものがある。この犬と長い年月を共にするのである。犬に「よろしく」と声をかける人、握手する人もいる。
 犬への命令はすべて英語である。ゴー(行け)、カム(来い)、シット(座れ)、ダウン(伏せ)、ウエート(待っていろ)、フェッチ(持って来い)、グッド(よしよし)など二十五、六語ある。なぜか用便はワン・ツーという。
 さて、どんなに優秀な犬と理解のある主人との間でも相性がある。なぜかうまくいかないのに別の主人と組み合わせると、うまくいく。妙なものだ。このへんも人間夫婦の組み合わせと似ている。
 訓練センターでは相性の合った“二人”をペアにすることを「結婚」と呼んでいるが、まさに結婚である。盲導犬は主人の妻であり、夫である。さらに体の一部となるまで結び合うのである。相性が悪ければ、結婚しても出戻りがあるし、再婚もある。
 犬の個性もさまざまだ。利口なのに仕事ぎらいの犬がいる。主人の側にいるときは働くが離れるとダメ。人間にも監督の前では仕事をするが、すきを見てはタバコを吸う抜け目のないのがいるが、そっくりである。
 神経のこまやかな犬は主人の心をすばやく読み取る。「さあ、今日は早く帰ってナイターを聴こう」と思っていると、何も言わないのに犬がサッと立ち上がるといった経験をした人は少なくない。
 犬は命令で動くのが原則である。主人が電車の中で眠ってしまい、いつもの駅で降りないとき、犬はおかしいと思っても、命令がないからやり過ごすことになる。
 逆に、危険なときは主人が命令しても動かないという“賢い不服従”が求められる。これは警察犬や猟犬と違うところで、主人が「ゴー」といっても車が走ってきたら動かない。「レフト」といわれてもホームから転落しそうだったら従ってはいけないのである。これも交差点やホームで実際に教える。これができると一流の盲導犬だ。
 盲導犬の知能は三、四歳の人間に相当するといわれるが、ユーザーに言わせると「いや、そんなものじゃない、中学生ぐらいはある。少なくとも主人に対しては」という。
 犬に対して、いとおしいという感情が生まれると、それは完全なペアになったしるし。なんといっても代償をもらわずに働く動物は犬より他にいない。チンパンジーならバナナ、馬はニンジン、人間もお金を与えないと働かないものだが、犬は「よしよし」とほめるだけで仕事をしてくれる。もちろん愛情が通い合っての話だが。
 犬の寿命は平均十六、七歳、働けるのは約十年。退役した犬は家庭や老犬ボランティアに引き取られるが、そこでまた若返り、元気を取りもどす場合が多い。 務めから解放されて退役犬となり、一度おいしいものを味わった元盲導犬はドッグフードを出しても絶対食べようとしない。三日間もハンストをされて、とうとう根負けしたユーザーもいる。今ではラーメン、パン、お菓子、何でも人間の食べるものを欲しがるという。
 盲導犬の務めがいかに神経を使う、きびしい仕事であるかを示して、ちょっと哀れをよぶ話である。十年間、主人のために働きつづけた後の、ささやかなぜいたくなのだろう。



杖か、盲導犬か、ロボットか


 杖と盲導犬では、どこが違うのだろうか。
 杖だけで歩くのは大変だ。狭く、段差のある道。看板があったり自転車が放置してあったり、健常者でさえ注意がいるのだから。杖をついて町を歩いたあとは食事をするのも嫌になるほど疲れるという。
 緒方は、講演でこんなふうに話す。
 「目の不自由な人は触覚に頼ります。杖で前をさぐって歩くのは触覚に頼っているわけです。これは大変疲れる。だが盲導犬といっしょに歩けば犬の視覚で歩くことになる。盲導犬は触覚を視覚に変えてくれるのです。これは大きい。盲導犬がアイ・メイトといわれるゆえんなのです」
 「目の不自由な人が自由に歩けるようになれば、視覚障害者問題の五〇lは解決したといってよい」
 盲導犬と一緒だと、命令ひとつで気軽に出かけられる。音楽会に一人で行けたとか、人に頼んでいた郵便物を自分で出せるとか、追い越されてばかりいたのに初めて人を追い越して歩けたとか。それは単に一人で歩けたという喜びにとどまらず、大きい自信となり、新しい世界を手に入れることにつながるのである。
 では、盲導犬は単なる案内犬か。
 コンピューターをはじめとするハイテク技術を応用すれば、やがて精巧を極めた「視覚障害者用の誘導知能ロボット」が生まれることも不可能ではないといわれる。実際に科学技術庁はロボットを試作したこともある。
 しかし、盲導犬に取って代わるような知能ロボットが、たとえ登場したとしても、いったん盲導犬を使った視覚障害者は機械なんか使いたいとは思わないだろう。なぜなら、人と心を通わせ、友人になってくれるパートナーは、盲導犬以外に考えられないからだ。
 盲導犬は、犬でありながら主人と心が一つになった、かけがえのない分身である。英語のDOGを逆につづるとGOD(神)。ユーザーは皆、盲導犬こそ神から授かった無二の分身、神のお使いと考えている。



「雨にも負けず」


 「盲導犬をじっと見ていると“雨にも負けず”を連想するんです」
 盲導犬のユーザーを取材中に、期せずして二、三人から同じことを聞いた。不思議というか、なるほどというか。
 「雨にも負けず、風にも負けず」のあの宮沢賢治の詩である。
 毎日、黙々と主人のために働く姿は、なるほどあの詩とよく似ている。実際、大阪に住む視覚障害者は次のような詩をつくっている。視覚障害者は同じ思いを抱くのだろうか、この詩を見せると、みんな「そうです。それです」と賛同したのである。

    雨にも負けず 風にも負けず
    雪にも夏の暑さにも負けず
    欲はなく 決して吠えることなく
    いつも静かに待っている
    一日にボール一杯のドッグフードと
    少々のミルクを飲み
    あらゆることを 自分の感情を入れずに
    よく嗅ぎ、よく聞き 主人のために尽くす
    ………
    主人がかなしいときは慰めてあげ
    主人がうれしいときは共に笑う
    そういう盲導犬に わたしはなりたい
          =日比野イエラ著『わたしは盲導犬イエラ』(ミネルヴァ           書房)より

 視覚障害者の皆さんは親睦と訓練を兼ねて旅行することがあるが、夜の食事が終わると、だいたい犬の自慢話になる。
 「うちの子(盲導犬のこと)は褒めてやると、首をちょっと斜めにして舌を出すんだ」と言うと、相手も負けてはいない。「うちの彼女は、私が妻にしかられるとニヤッと笑うよ。いや、ほんとに」。
 盲導犬バカになってしまった視覚障害者たちは泡を飛ばして“犬も食わない”話を延々とつづけ、果てることを知らない。ちょっとでも相手の犬を悪く言おうものなら怒鳴られそうな勢いだ。犬が可愛くて可愛くてたまらないという思いが伝わってきて、付添いの健常者も心を洗われるという。
 盲導犬の勉強をはじめたころの緒方には一つの疑問があった。
 たしかに盲導犬は便利なものだろう。だが、一頭が三百万円もする犬を手間暇かけて育てるより、どうせお金を使うなら、視覚障害者にもっと有効に、直接、役に立つものに使った方がよいのではないか、と。
 しかし、人間と盲導犬の心の深いつながりを理解していくにつれて、盲導犬は目の不自由な人にとっては、単なる案内役を超えた、心を結び合った掛けがえのないものだということが分かった。
 「主人が悲しめば犬も悲しむ。主人が笑うと犬もシッポを振って喜びを表わす。犬は感情を分け合ってくれる。だから、主人は犬に話しかけるのです。おい、今日はこんなことがあったぞ、あすはどこそこに行くぞ。ほんとに犬の顔を見て、声を出して話しかけている。犬も人間になり切っている。主人は孤独を味合わないですむんです」
 「主人が杖をついて一人で歩いていても、だれも話しかけないけれど、犬と一緒だと、まあ、かわいい犬ね、といって話しかけてくる。それだけでも主人は人と触れ合う機会ができる。そんなちょっとしたことが主人には、とてもうれしいことなんだ」
 緒方は講演で熱を込めて、そう語る。


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