第四章  七十の手習い



 
【第四章  七十の手習い】



 
「「「盲導犬の歴史「「「



@ 善意のピラミッド A バディの活躍 B ゴルドン青年の来日 C 盲導犬の父、塩屋賢一


善意のピラミッド


 緒方は福岡盲導犬協会の専務理事になったら事務局の運営や経理をどうしようか、そんなことばかり考えていたが、就任早々、まず直面したのは講演の依頼だった。盲導犬のことはおいおい勉強しようと思っていたが、人前で話すとなると、いい加減な知識ではすまない。片っ端から本を読みはじめた。イロハからの勉強だ。七十の手習いである。
 長男の信之さんは当時の緒方を振り返って
 「家では仕事の話はまったくしない父だが、あのころは食卓を囲みながら盲導犬の歴史や性能について自分からよく話していた。講演の前夜で少し興奮していたのかな」
 盲導犬とは? わが国の普及状況は? 九州は? 視覚障害者は盲導犬によってどれほど救われるのか? ユーザー(使用者)と盲導犬を受け入れる社会の環境は?
 七十の手習いではあったが、緒方のカンは冴えていた。いち早く盲導犬の本質を見抜いたのだ。
 「勉強して気づいたのは、盲導犬事業は人びとのやさしさ、善意の上に成り立っているということ。善意のピラミッドだな。その歴史を見ても、運用の実態を見ても。それが最も印象的だった」
 盲導犬を生ませる繁殖ボランティア、家庭に引き取って育てる飼育ボランティア(パピーウォーカー)はもちろん、犬を教育する協会の職員たちも根っから犬が好き、あるいは障害者のために尽くしたいと思って少ない報酬で奉仕している心やさしい人びとである。
 盲導犬協会の運営もまた人びとの寄付金でまかなわれる。どの協会も、また欧米の実態を見ても、公的支援は限られている。運営資金は、ほとんど民間の草の根の善意による細々とした寄付金に頼っている。
 国から巨額のお金を引き出して派手な橋や建物をつくる公共事業や冷徹な銀行業務とは、まったく異なる人間のやさしさの営みなのである。不安といえば不安だが、そこが盲導犬事業の素晴らしいところでもある。人びとは、盲導犬事業のそんなすがすがしさに引かれる。
 盲導犬の歴史もそれを裏付ける。盲導犬約百年の歴史をひもとくと、じつにさまざまの人たちが育成や支援にかかわってきているが、みんな心やさしく、それでいて、いったん困難に直面すると不屈の精神で視覚障害者のために闘った人びとである。盲導犬の歴史を語ることは、そのまま人間のやさしさの系譜を語ることになる。
 緒方も、盲導犬のことを学ぶうちに何十人、何百人という奉仕者の心を学んだのである。
 この章では緒方の足跡をしばらく離れて、人間のやさしさ、善意の上に営々と築かれてきた盲導犬育成の歴史をたどってみたい。



バディの活躍


 犬は人類最古の友だちである。大昔から人間の身近な動物として暮らしてきた。長い歴史のなかでお互いに信頼関係が生まれ、人間の生活を手助けする狩猟犬や家畜の番をする牧畜犬が育ってきた。
 犬が、目の不自由な人を助けて道案内をするというのも紀元前からあったようだ。西暦七九年、火山の噴火で一瞬にして溶岩の下に埋もれてしまったポンペイの壁画にも、目の不自由な人といっしょに歩く犬の姿が描かれている。
 だが盲導犬(ガイド・ドッグ)の歴史はまだ新しい。
 十九世紀初めのドイツの文献に登場するが、普及するようになったのは二十世紀になってから。第一次世界大戦のとき、ドイツ軍が失明負傷者のために軍用犬のシェパードを訓練したのが最初といわれる。
 その後、ヨーロッパ、アメリカで普及していくのだが、盲導犬がドイツから今では世界一の普及国となったアメリカ大陸に広がるきっかけになった一つのエピソードを紹介しよう。
 それは一つの記事から始まった。
 一九二七年(昭和二年)、今から七十年ほど前のこと。アメリカの雑誌に、ドイツの盲導犬の実情を紹介した記事が掲載された。書いたのは当時スイスに住んでいたアメリカ人、ドロシー・ユースティス夫人。たまたまドイツで盲導犬を見て感心し、「ドイツにはこんな犬がいる」と故国の週刊誌に書いたのである。この記事を読んで心を打たれたモーリス・フランクという盲目の青年が夫人に手紙を書いた。
 「あなたがお書きになったことは本当のことでしょうか。本当ならお願いします。多くの盲人は他人に依存することを嫌っています。盲導犬によってまず私を訓練してください。そうすれば次に私が彼らを援助します。私は犬を連れて帰り、一人の盲人が他人の助けを借りずに独立できることを見せてやります。私に盲導犬を一頭、与えてください」
 手紙を受け取った夫人はフランクをスイスに招待し、シェパードの盲導犬バディを引き合わせた。
 訓練は六週間におよび、途中、何度かくじけそうになるが、バディのぬくもりと能力に支えられる。実際に命も救われる。訓練中に突然、あばれ馬の一隊がやってきたとき、バディはとっさの判断でフランクを堤の上に引きずり上げたのである。
 フランクはバディとともにアメリカに帰国した。到着を待ちかまえていた新聞記者たちは、盲導犬の能力を試そうと、当時「死の道路」と呼ばれていたウエスト・ストリートの横断という難題を突きつけた。バデイは一つずつクリアし、盲導犬の優秀さを全米に知らせることになった。
 バディは生涯、フランクとともにユースティス夫人が創立したアメリカ最初の盲導犬協会「ザ・シーイング・アイ」のために働き、アメリカのほとんどの都市を訪問、マスコミもバディのことを大きく報道した。以来、アメリカで盲導犬は急速に普及していった。
 さて、バディもそうだったが、盲導犬には、長いことシェパードが使われていた。現在ではラブラドール・レトリーバーとゴールデン・レトリーバーが主流である。もともとカナダのラブラドール半島が原産で、イギリスで改良され、今日に至っている。
 手足には水かきの痕跡があり、主人が撃ち落とした鳥を、泳いで口にくわえて持ってくるのが主な任務だった。ちなみに「レトリーバー」という名称は、撃ち落とした獲物を〈持ってくる retrieve〉ことから付けられた。シェパードのような攻撃性はなく、性格もおとなしく、人のいうことをよく聞く。大きいわりには可愛らしい、ということも普及した理由だろう。



ゴルドン青年の来日


 わが国に盲導犬の存在を伝えたのはアメリカである。そのときもドラマがあった。
 昭和十三年、アメリカのゴルドンという学生が盲導犬を連れて来日したのがきっかけで、輸入、育成しようという動きが起こった。そのころは日中戦争の最中で、わが国も戦争による失明者が増えていた。戦争は、勝つためにいろいろなものを発明、工夫するが、ドイツでも、わが国でも、盲導犬は戦争の産物だったのである。
 ハーバード大学の盲学生フォーブス・ゴルドン君と盲導犬オルティが日本滞在の間に関係者に与えた驚きは新鮮、かつ大変なものだった。なにしろ盲導犬の初の日本お目見えなのだから。ゴルドンショック、盲導犬ショックである。
 「目の見えない学生が犬に連れられて太平洋のかなたから観光旅行にやってきた」と新聞が伝えると、それを読んだ当時の中央盲人福祉協会が「陸軍病院にいる失明軍人に、ぜひ盲導犬の話をしてほしい」と依頼、ゴルドン君も即座に引き受けて病院での懇話会が実現した。
 ゴルドン君は十七歳で失明し、二十一歳のときにニュージャージー州の盲導犬学校で犬を使う訓練を受け、オルティと出合った。オルティのおかげで自立の精神が芽生え、名門ハーバード大学に入学できたこと、犬を使う上での注意などを細かく話した。
 話の間、オルテイは足元に座ったまま身動きひとつせず、ゴルドン君が立とうとすると、さっと先に立ち、指示を待っている。その賢さと行き届いた神経に、みな感嘆の声を挙げた。
 陸軍病院は「他国でできたことが日本でできないわけがない。失明軍人の更生、独立のためにも病院で盲導犬を育てよう」と決意を固めていく。ゴルドン君が帰国した後、中央盲人福祉協会は軍病院、日本シェパード犬協会など関係者を集めて盲導犬研究会を開く。こうして翌十四年、ゴルドン君の来日から一年を経て陸軍病院で盲導犬事業が始まったのである。
 その五年後には日本で生まれ、訓練された犬が四頭になった。失明軍人が犬とともに郷里に帰り、失明前の職業に復帰したという朗報が新聞で伝えられるようになった。



盲導犬の父、塩屋賢一


 ゴルドン青年がもたらした日本人の盲導犬への関心は、太平洋戦争でいったん中断されたが、戦後まもなく、のちに「盲導犬の父」といわれた塩屋賢一さん(現アイメイト協会理事長)が東京に盲導犬訓練所をつくって育成に着手、ようやく軌道に乗ってくるのである。
 わが国の盲導犬の歴史を語るうえで塩屋さんは忘れてならない存在だろう。
 塩屋さんは、勤めていた電器メーカーが倒産し、犬の訓練士になった。だが、せっかく訓練した純血犬がお金持ちのおもちゃになって駄犬になり下がるのを見て失望し、犬道楽の手伝いではなく、不幸な人々に役立つ犬を、と盲導犬の育成をはじめた。戦後間もないころである。
 先達のいない未知の分野だ。自分の愛犬を実験台に、指導者も指導書もない、まったくの“無”からスタートした。盲人の不自由さを知ろうと、自らタオルで目隠しし、でこぼこ道の小石につまづいたり、電柱にぶつかったりの日々を一カ月も続けている。
 こうして昭和三十二年、国産第一号の盲導犬チャンピー(シェパード)を滋賀県の盲学校の教諭に贈った。四十六年に東京盲導犬協会を設立、以来、わが国の盲導犬のほぼ半数にあたる約四百頭を提供してきた。その功績をたたえて吉川英治文化賞、点字毎日文化賞などを受賞している。
 そんな草分けの努力をつづけながら、昭和四十二年、参議院議員でライオンズマンでもあった迫光久常さんや歌舞伎俳優の坂東三津五郎さんらが資金を出して日本盲導犬協会を設立、本格的な育成が始まる。国際奉仕団体ライオンズクラブは視覚障害者の福祉には特別の力を注いだ団体だが、これについては改めて触れたい。
 その後、東京をはじめ北海道、栃木、名古屋、京都、大阪に盲導犬協会と訓練センターが設立されていく。しかし関西以西では長い間、空白状態が続くのである。


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