第一章  「イロを着けるな」


  
 
【第一章  「イロを着けるな」】



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青春時代「「「


@ 祖父茂平の教え A にがい思い出 B 男の美学


祖父正直の教え


 緒方豊吉は大正二年九月三十日、福岡県三井郡北野町弓削で庄屋の子として生まれた。母屋のまわりに酒蔵がたくさんあったのを覚えている。五人兄弟の末っ子。父は梅吉、母は元といった。
 大学を卒業するまで学資の面倒をみてくれたのは長兄だが、緒方が幼いころの記憶として、もっとも印象に残るのは祖父である。
 祖父、正直は私塾を開いていた。村人に敬愛され、道で祖父に出会った人びとが頭を下げていたのを覚えている。子ども心にも「おじいちゃんはエラい人」と思っていた。
 父が温和な性格だったせいか、緒方の教育は、もっぱら祖父が引き受けた。この「エラいおじいちゃん」から繰りかえし教えられた言葉がある。

  一つ 弱いものをいじめるな
  一つ ウソをいうな
  一つ 人のものを盗むな

 これは今でも鮮明に覚えている。そして、緒方の一生を通しての処世訓になった。
 この三つの教えは、昔は、どの家庭でも学校でも、徹底して叩きこんだものだ。「ウソをいうとバチがあたるぞ」と教えられ、それが怖さに、悪いことやウソをつくのを思いとどまった。子どもがまだ正直で、無邪気なころだった。
 「この三つは人間の基本。近ごろの子どもがおかしいのは基本をしっかりしつけないからだ。親がわるい」
 子どものしつけについては、大正生まれのガキ大将として平成生まれの子や親に言いたいことはいっぱいある。
 緒方は先日、ある在日アメリカ人の母親がテレビで話しているのを聞いた。アメリカでも子どものしつけは似たようなものだという。
 中学生の教師刺殺事件にふれながら、その母親は
 「日本の子どもは小さいときから勉強を強いられてかわいそう。アメリカの家庭はもっと自由に育てる。ただし幼時のしつけは全体的に大変きびしい。家庭によってしつけの違いはあるが、小さい子に必ずといってよいほど言い聞かせる三つの教えがあります」
 といって挙げたのが、緒方の祖父の教えと同じものだったという。
 三つ目が「人に迷惑をかけない」と違っていたが、子どもには、こむずかしいことは言わず、幼時のしつけとして絶対に必要なものだけを、わかりやすく、きびしくしつけようとする姿勢は共通している。
 「子どもには、これだけ教えれば十分。すべてはこの三つの応用でしょう。弱いもんをいじめるなということは強いもんに負けるな、ということでしょう。ウソを言うなということは自分に忠実に生きる、ということでしょうもん。これを守れば、子どもが出来そこなうこつは、なか。これは万国共通のはずじゃ」
 平成の子どもがひ弱で、もろくなってしまったことが八十五翁には残念でならない。
 緒方は子どものころの三カ条の教えは役に立ったと素直に信じている。
 「この年になって恥ずかしかばって、こんなもんば引き出しに入れて、ときどき眺めよる」
と言って見せてくれたメモには“十カ条のご誓文”が書かれていた。三つの教えの老年版と見た。


 『十戒』

 一つ 老人は肩書でも資格でもない
 一つ 与えよ、与えられるな
 一つ 明るく、愚痴を言うな
 一つ 自分が正しいと思うな
 一つ 何事にも感謝して不足を言うな
 一つ 位階勲等を欲しがるな
 一つ 身だしなみに気をつけ、不潔になるな
 一つ 常に自然体、威張るな
 一つ 一切、言い訳するな
 一つ 絶対ウソをつくな



にがい思い出


 祖父の三つの教えはよく効いた。なかでも「弱いもんをいじめるな」は拡大解釈されて、緒方の強いもん相手の喧嘩ぶりは有名だった。
 久留米市の明善中学時代、どこそこの中学に強いやつがいると聞くと、それだけのことで相手校に乗り込み、喧嘩を売った。
 映画館で後ろの男が女といちゃいちゃしてやめないのでラムネ瓶で殴ったり、明治大学予科に行ってからも、柔道四段の猛者と喧嘩、校舎の踊り場まで追っかけてきた相手に熱湯がたぎるヤカンを振り上げたり、武勇伝は数えきれない。この猛者、名を鈴鹿寿といったが、終生、緒方の友人となった。
 だいたい喧嘩っ早い子は、見るからに不良っぽくて、粗暴さが顔や服装に表れるものだが、緒方は服装もまとも、やさしい顔をした少年だった。「あの顔で、ほんまに喧嘩ができるもんだ」といわれたが、子どものころから強いもんには立ち向かわねばならない、という愚直な正義感があったようだ。
 中学を明善、八女、鞍手と三つも替わっているので「転校は喧嘩が原因?」と尋ねると、ニヤリと笑った。八女から鞍手への転校はラムネ事件が原因らしい。        
 鞍手から明大予科に進学した。質実剛健の校風で知られていた明治が好きだった。ここでは大学をとおして剣道に磨きをかけた。
 剣道と緒方のかかわりは深い。小さいときから始めたが、中学のころは福岡日々新聞社主催の剣道大会(現在の玉竜旗高校剣道大会)でも活躍した。子どものころの喧嘩っ早さは、剣道によって少しずつ磨かれ、ものに動じない落ち着きを身に付けていった。
 緒方は剣道から多くのことを学んだ。剣道をやっていなかったら今の自分はないともいう。八十代半ばなのに背中がしゃんと伸びて、歩き方に老いを感じさせないのも剣道で鍛えたせいだろう。
 その剣道で、にがい思い出がある。
 当時の西日本新聞記者、村上令氏(後の運動部長)が緒方から取材して新聞に書いた一文がある。緒方の青春懺悔録である。

 《  「「「昭和が一ケタから二ケタに移る時代の学生剣道界に最高        峰として輝いた剣士に大岡(禎)という選手がいた。旧制福岡中から早大に進んだが、三角卯三郎先生が指導する福中時代に早くも全国制覇をなし遂げている。大学へ進んでからは無敵、だれ一人、大岡を倒す者はいなかった。
 明大の緒方も例外ではなかった。どうしても勝てなかったその大岡に緒方が勝ったことがある。
 その試合はトーナメントによる一本勝負の勝ち抜き戦。大岡に対した緒方選手は、勝てないことを承知で「ご無礼」と会釈して上段に構えた。昔の剣士は、目上の人に対して、いきなり上段に構えることなんかしなかった。大岡は正眼。
 打ち込むスキもつかめないうち、緒方は袴の右スソをずり上げるため上段に構えていた右手を腰に持ってきた。大岡の視線が緒方の腰からスソの方へ移った。瞬間、緒方は「今だっ!」とばかり、左の片手打ちでメンをたたいた。
 主審は「一本」と手を上げた。しかし副審の一人であり、緒方の師でもある中山博道範士は手を上げるのをしぶった。しかし勝ちは勝ちである。大岡は一礼して下がった。大岡に勝ったのはこれが初めての緒方は、その後も勝ち進んで意気揚々と引き上げた。
 翌日、明大道場に現れた中山範士は緒方を呼びつけると烈火のごとく怒った。
 「お前は勝つためにイロを使った。あんな卑怯な勝ち方はない。心はすでに負けている」
 中山範士の怒りは収まらず、竹刀で打たれた緒方は、このとき右の鼓膜を破った。以来、聴覚がにぶった緒方だが、その時のことを次のように語り、中山範士の教えに感謝している。
 「私は、あのとき生まれ変わりました。勝負は、どんなことをしても勝てばよいというものではない。人生も同じであるということを教わりました」……》(西日本スポーツ、昭和53年1月10日)

 この記事には『イロを使った私』という見出しが付いている。「人間、色を使うな」「ツヤばつけなんな」「何事も正眼でいこう」。緒方が常々、人にも言い、自分にも言いきかせている言葉である。



男の美学


 昭和七年、明治大学予科から本科の政経学部経済学科に進んだ。満州事変がはじまった翌年で、世はしだいに自由主義から軍国主義に移っていくころだ。
 緒方は剣道をやるかたわら愛国学生連盟の運動にも参加した。国粋主義、国体護持について懸命に考えたのもこのころ。当時の青年に大きい影響を与えた北一輝の思想に共鳴した。在学中に二・二六事件(昭和十一年)が起こっている。
 学生時代の緒方は剣道や学生運動だけに明け暮れていたかというと、そうでもない。勉強もしっかりやっている。ちょっと恥ずかしそうに緒方が明大のころの成績証明書を見せてくれた。四十一科目のうち三十二科目が優である。
 剣道やってるから学業の方は少しぐらい悪くても仕方がない、という考えには反発した。
 「勉学の方が抜けては剣道四段の名もすたる」
 文武両道といった大げさなことではなく、「あいつは剣道に熱中しているのに成績もよい」といわれるのが緒方のひそかな誇りだった。
 喧嘩好きだった中学時代も勉強はしたようだ。それも、人に分からないように、こっそり。喧嘩は強いが成績はダメ、では祖父も許さなかったし、自分も良しとしなかった。柔軟ななかに強靱な心を持つ生き方にあこがれた。
 弊衣破帽。男の美学。緒方は、そんなツヤな言葉は使わないけれど、ロマンを常に意識していたのかもしれない。かっこよさを大事にする大正ロマンチシズム。いつもは控えめで、ここというときに爆発的強さを発揮する座頭市や水戸黄門が大好きだ。
 ふと、その成績証明書の発行日を見ると「昭和四十八年」と記されている。緒方が六十歳のころである。なぜ、そんな年になって大学の成績表を取り寄せたのかと聞くと、苦笑しながら、こんな話を披露してくれた。
 当時、長男信之、次男直茂、長女由子は社会人になったばかりや大学在学中やらで東京にいた。長男の下宿に行ってみて驚いた。玄関は履物が乱雑にあふれ、部屋では友人たちがマージャンをやっている。たばこの煙はもうもう、散らかし放題。
 「すこしは勉強しているのか」と説教したところ、息子は「お父さんも学生のころは剣道と遊びで明け暮れ、勉強の方は…」と口答えしてきた。
 「何を言うか!」といって、即刻、大学から取り寄せたのがこの証明書である。息子が降参したのはいうまでもない。
 それにしても「お父さんは学校の成績はよかったぞ」という父親はいるが、成績証明書を取り寄せて子供の鼻先に突きつけた親は少なかろう。
 ちなみに現在、信之は福岡中央銀行清川支店長、直茂は古川電工関連会社の役員、一人娘の由子はパリの大学を出て東京のフランス大使館に勤めてたが、最近独立して出版の仕事を始めた。長男は早稲田、次男は慶応、親父は明治で明大校友会福岡支部長。六大学野球やラグビーのテレビ観戦になると盛り上がる。


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