はじめに





 
【は じ め に 「「「「私に人生といえるものがあるならば」「




 平成五年一月十七日のことだった。
 緒方豊吉は福岡市中央区の福岡セントラルホテルで開かれた母校、明治大学校友会の新年総会で、役員就任のあいさつを終わり、席にもどった直後に倒れた。脳出血だった。
 救急車で運ばれた佐田病院のベッドの上で生死の境をさまよう時間がつづく。     もうろうとした意識の中に一つの光景が現れた。「「「犬がいる。視覚障害者    がいる。盲導犬の贈呈式らしい。何十回となく経験してきた贈呈式の一シーン。盲導犬協会理事長として一番うれしい晴れの舞台だ。盲導犬を視覚障害者に手渡す。笑顔で握手する。視覚障害者もにこやかに笑った。じつにうれしそうな笑顔だ。そのとき、意識がもどった。
 「目の不自由な人のために役立つこつば少しばかりやってきたから、神様が助けてくれたんじゃろ」
 あの夢を見なかったら、視覚障害者の笑顔が浮かんで来なかったら、自分は向こう岸へ行っていたかもしれない、と今でも思う。視覚障害者への奉仕は、ますます緒方の天職となった。
 緒方理事長の胸には『光の騎士となれ』という言葉がある。七十年ほど前、三重苦の女性ヘレン・ケラーがライオンズクラブの世界大会で「ライオンよ、視覚障害者を暗闇から解放してください」と訴えたときの言葉で、今ではライオンズ会員や視覚障害者支援に取り組む人たちの合言葉でもある。
 「視覚障害者に光を、盲導犬という光を」
 再起してから五年半が過ぎた。今では“おやじ”と呼ばれることの多い緒方は今年(平成十年)九月で八十五歳になった。
 「石炭屋、銀行屋、流通センター、盲導犬協会……あれこれやってきたが、生涯の前半は人びとのお世話になり、後半はいくらか恩返しをしとるというところか」
 ひと仕事終えて老境に入った者は、隠居するか、名誉や勲章が欲しくなるか、ますます人のために尽くしたいと思うか、いずれかに分かれるというが、緒方は今、視覚障害者のために余命を捧げて悔いなし、と思っている。
 「私に人生といえるものがあるとすれば、それは盲導犬の仕事に取りかかってからのこの15年だろう。多くの人の協力で盲導犬を育て、それを視覚障害者に提供し、笑顔で感謝されるときが一番うれしか」

 福岡市南区市崎一−一三−二八の自宅の部屋には
 『日日是好日』
と墨書した掛け軸が下がっている。「悠然として覇気あり、洒脱にして誠実」と自己流に解釈している。おやじと呼ばれる風格を得てはじめて到達できる心境だろうか。
 奥田八二前福岡県知事からもらった色紙の『楽道閑居』(道を楽しんで閑居する)も好きな言葉である。
 戦友会の集いから帰った日、
 「五十人ほど集まっていたが、わしが最高齢。あとは八十以下なのに、みんな年老いて現役はおらんかった。なぜ、そんなに元気なのかと聞かれるから楽道閑居と答えといたよ」
 小さいときは喧嘩っ早いガキ大将、成人してからは型破りの銀行人だったが、今は白い鼻ヒゲが似合う好々爺である。
 年輪がつくりあげた顔には、若いころの負けん気と、老いてからの温厚さがまじり合って、いい風貌になってきた。
 「これまでに協会が視覚障害者に提供した盲導犬は九十一頭(平成十年八月現在)。来年は百頭になるじゃろ。それを楽しみに働かせてもろうて、わしはほんと幸せもん」
 『楽道閑居』は当分つづきそうである。
 現在は、福岡市中央区の大手門から荒戸に引っ越して間のない福岡盲導犬協会(福岡市市民福祉プラザ内)に電車とバスを乗り継いで通う毎日である。
 十五年前、協会の仕事を無給で引き受けるときに「勤務時間だけは自由にしてくれ」と断っていたので朝は十時ごろ、ゆっくり出勤する。つらかったリハビリに耐えて脳出血の後遺症もほとんどない。杖は持ち歩くが背筋はぴんと伸びている。気持ちにもまた、気骨という筋が一本通っている。
 裏千家の名誉師範で、カルチャースクールの講師も務める妻の房子さんと二人暮らし。老人住まいと見てか、先日、家のガラス戸を破って泥棒が忍び込んだが「何も盗るものがなかったらしい」と笑う。同じ敷地内に長男、信之さん一家が住む。子どもは一姫二太郎の三人。七人の孫がいる。


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